発売の日、或る病院に、お邪魔してきました。 その病院では、筋ジストロフィーの方々が入院されている。 そこに、高校生が、ボランティアで、音楽を演奏しにゆく、 ということで、その演奏の模様を拝見してきました。 バイオリン、チェロの響きはとても美しかった。 私は、自分が生きている世界を世界だと思って生きている。 そして、それは本当にそうだとも思う。 それしか、知りようがない。 だけど、いつも乗っている電車のいつも降りない駅には、 看板をなんとなく見ている病院がそびえ立ち、 その中で治癒することの無い。といわれた患者さんが、 生活をしている。入院して、生活している。 目の前で、生きていた。 私は、自分が生きている毎日を意識した。 歩く道。すれ違う人。立ち寄る本屋。ふらりと映画を観る。 ビデオを借りる。欲しいCDを買いにゆく。ライブを聴きにゆく。 沈丁花の匂いに、振り返る。 それが、どれだけの可能性を持ち、 どれだけ私の生活を裕福にしていることか。 はじめて訪れた病院。はじめて出逢う人々。空気の対流が起きる。 私は、知る。 いつもは、自分が唄う場所に来てくださるあなたを待っている。 だけど、その場所に物理的にもどうしても、来られない人が生きている。 私の唄を聴く人を、私は「待つ」というベクトルだけではなく、 その人が生きている場所へ、空間へ、私が唄いに「ゆく」。 そのベクトルの変化。 ここに気がつけて本当に良かったです。 そして、この気づきを結びつけてゆこうと思います。 そして、昨日その病院で、穏やかな心をもたれ、 美しい天女の衣があるならば、この人がまとっていたものだ。 と感じる女性にお会いしました。 その方の言葉に感動し、近づき、御礼を伝え、お話しさせていただくと、 静かに私の背中に手をおいてくださり、静かな声で話しかけてくださった。 彼女に出会えたことは、素晴らしい一瞬だった。 筋ジストロフィーにおかされた友人がいた。 11才の時、オーストリアで、彼と知り合った。 その少年も、11才だった。 彼は、私のことが大好きで、電動車椅子で、 ものすごいスピードでいつも、追いかけてきた。 私を見つめると、一目散に。 思い出すと、笑ってしまう、いい想い出だ。 いまでも、彼がほっぺたに、むにゅぅ〜とキスをしてきたことを思い出す。 よだれが、べとべとで、キスをされるたびに、私はしかめ面になった。 笑顔がとびきりのフィリップだった。 そんな彼のことをずっと、忘れていたのに、思い出した。 元気かな。彼に会いにルクセンブルグに旅に出るのも悪くない。 だけど、もう、彼の連絡先はわからない。 2005年3月23日NUU |
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